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関係資料コレクション紹介①

2023年11月20日



大江健三郎文庫には、大江氏の著書(初版本)、作品が掲載された雑誌、また研究書・関連書籍などが網羅的に所蔵されています。


その多くは、『大江健三郎書誌稿』(私家版)の編著者であり、大江研究者の森昭夫氏から寄贈していただいたもの。大江の初期〜後期までの全キャリアに追走するように収集された、膨大な資料群は圧巻です。


文庫には、大江作品のほぼすべての初版本が所蔵されていますが、そのなかにはすでに絶版となっている等の理由で、今では手に入りづらいものもあります。

今回ご紹介するのは、そのような初版本の一つ、『夜よゆるやかに歩め』(中央公論社、1959年)です。


見返しには大江のサインも入っています。

『婦人公論』1959年1月〜6月号に連載された作品で、文学部で学ぶ大学生・康男と、彼の従兄の妻である女優・矢代節子の関係を描いています。

大江のキャリアのなかでも異色の恋愛小説であり、『大江健三郎全小説』(講談社)には未収録です。


たしかに、他作品に比べるとスルスルと軽く読める作品ですが、青年の鋭敏な感性が読み手に伝わってくるようなリズミカルな文体や情景描写には、大江文学のエッセンスをたしかに感じ取ることができます。

たとえばこのような部分。



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氷るようにつめたい受話器から離れた自分の右手に、その指先に熱い血がよみがえってくる、そして右手は再び自分の肉体の一部にかえる。康男はそのままぼうぜんとたたずんで、受話器を見つめていた。暗くつめたい部屋だ、台所と食堂とが一緒になっている、狭い部屋。流しのそばのダン・ボールの箱のなかで仔犬が眠っている、それに人間の寝息がガラス戸の向うでしている。指先には血が戻ったが、心には気がかりな空洞がひとつひらいてしまったような感じだった。結婚か、と康男は考えた。ああ、このおれが結婚か、それはなんだか重すぎるしかさばる荷物を肩にのっけるような気持だな、このやろう。まったくそういうことについては考えてさえみなかったな。(129-130頁)

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いかがでしょうか。この数行からでも、大江という作家が、すぐれた青春小説の書き手でもあったことが分かります。


文庫にはこのように、自筆原稿資料だけではなく、大江健三郎という作家を多角的に捉えるための関係資料が、数多く揃っています。

関係資料コレクションの公開は、利用申請をしていただいた研究者・学生の方に限らせていただいておりますが、注目すべき資料について、今後もBLOG内でご紹介していけたらと思っております。


ぜひ、ご覧いただければ嬉しいです!


(菊間晴子)